かつて一つの枠組みだった武蔵国が、なぜ東京・埼玉・神奈川の3都県に分かれたのか。教科書では「明治4年(1871年)の廃藩置県によって現在の都道府県の基礎ができた」と一行で片付けられがちですが、実際の分割プロセスは幕末の外交問題と深く結びついています。
幕末の「横浜開港」と外国人遊歩区域がすべての始まりだった
最大の分岐点は、1858年(安政5年)に締結された日米修好通商条約にあります。この条約によって横浜が開港されると、居留する外国人が自由に行動できる「外国人遊歩区域」として、「六郷川(現在の多摩川)と酒匂川の間、横浜から十里四方」という広大な範囲が定められました。
明治維新を迎えた1868年(慶応4年/明治元年)、新政府はこの外国人遊歩区域における攘夷派と外国人との殺傷事件(生麦事件のような外交トラブル)を防ぐため、該当エリアの旧幕府領や旗本領を一元的に管理する「神奈川府(のちに神奈川県)」を設置しました。当時の行政記録によると、発足時の神奈川県の領域は、相模国のほか、武蔵国の橘樹郡(たちばなぐん)133村、都筑郡(つづきぐん)77村、久良岐郡(くらきぐん)のうち50村、そして多摩郡の一部を組み込む形で成立しています。
つまり、現在の横浜市や川崎市が東京ではなく神奈川県に属しているのは、「横浜港から十里(約40km)四方の治安と外交を一括管理する」という明治政府の危機管理上の都合だったのです。
江戸を引き継いだ「東京府」と、北部の「埼玉県・入間県」
一方、徳川幕府のお膝元であった江戸周辺(現在の東京23区エリア)は、首都機能を引き継ぐ「東京府」として独立しました。残る武蔵国北部および中西部は、当初「浦和県」「大宮県」「忍県」「川越藩」などが乱立していましたが、1871年(明治4年)の廃藩置県とそれに続く府県統合により、東部の「埼玉県」(埼玉郡・足立郡など)と西部の「入間県」(入間郡・秩父郡など、のちに群馬県と一時合体し熊谷県へ)に整理されます。そして1876年(明治9年)、旧入間県エリアが埼玉県に合併されたことで、現在の埼玉県の形が確定しました。